nitro_idiot’s diary

すべてフィクションということになっています。

泥濘

それはある日の事だった。――

朝、仕事に行く妻を見送ってから再びベッドに戻って考え事に耽る。去年の暮れに関東へ引越してからの習慣になっていた。今日は何をしようかと考えてみたが、その日は何もする気も起こってこなかった。

それより前、自分はかなり根をつめて書いたプログラムを失敗に終わらしていた。失敗はとにかくとして、その失敗の仕方の変に病的だったことがその後の生活にまでよくない影響を与えていた。そんな訳で自分は何かに気持の転換を求めなければならなかった。

会社を辞めてから妻以外の人間と会う機会はほとんど無くなった。一ヶ月前に友人に会ったのが最後だ。そのとき僕がしばらく家に篭もるつもりだと言うのをしばらく黙って聞いていた彼は「意識して体を動かすようにしたほうがいい」というようなことを言った。「君は長生きすべきだよ」と。そして一日中座って動かないことや日光を浴びないことがどれほど悪影響を及ぼすのかを手短に語った。何か言い返してやろうという気にもなったが、友人が自分をとても気遣ってくれているのに驚いて口を出なかった。またその気遣いが嬉しくもあった。昔から病弱な身としてはむしろ諦めが強く、自分を顧みることをとうに忘れていた。

そんなことがあったもので、用が無くともたまには散歩に出なければな、という意識があった。僕は寝室の窓から覗く薄灰色の空の下を歩く自分の姿を想像した。服を着替えて玄関から出る。するとアパートの前の道は旧居のあった堺町通だった。道を下った角の家には手入れの行き届いた植木鉢に桔梗が咲いている。御池通に続く道には金木犀がオレンジ色の花を道に落としているのが遠くからでも見える。角を曲がった向こうの家には小さな百日紅が紅白の花をつけているだろう。

単なる空想だ。第一季節がデタラメだった。ただ、そうであったらいいのになと思ったのだ。

ぼんやりとした頭で服を着替えた。ハンガーラックから最初に見つけた着られそうな服を身につける。シャツのボタンを留めるときになって裏表反対に羽織ってしまっていることに気づいたりして時間がかかった。

出掛けるときに手にとったiPhoneの画面を見てメールが届いているのに気づいた。先日メールを送った会社からだった。仕事を辞めてからどこかで働く気も無かったのだが形だけでも求職はせねばなるまいと思い、とある会社に履歴書を送ったのだ。あとで履歴書のデータを見返すと志望動機を書き忘れていた。職務経歴書も社外秘の情報を書いていいものかどうか迷った挙句に結局書かずにおいた。それが十日待った今日人事部から丁寧な断り文が返って来た。元よりそこで働く気もなかった僕にとってはどうだっていいことのはずだが、にも関わらずこうして断られるとなぜか気が沈んだ。もう自分が役に立つ場所など到底見つけられるように思えなかった。

家を出てすぐの小道を歩いた。通りの名は無い。人の丈ほどの幅しかなく、車はもちろん、人通りもそれほど無い。両脇の柵の内側にはところどころ薔薇や牡丹や紫陽花などが植わっている。庭にはパンジーやシクラメンが咲いている横で唐突にジャガイモが花をつけていたりする。この道はこの辺りで一番好きな道だ。しかし、京都のどの道よりも劣っている。紅い牡丹の花が根元からぼとりと落ちてアスファルトに薄茶色く皺々になって重なり溜まっているのを見ると憂鬱な気持になった。この町には、歩きたい道が無い。

あてもなく歩いて適当なところで引き返すのが僕の散歩の定型だ。小道を抜けて線路沿いの道に出ると急に人通りが増す。その時間は大学に向かう学生たちが一方向に歩いていた。その中を僕はまるで自分も大学生だというような顔をして歩く。けれど次第に不安が募る。ふいに誰かが僕を指差して「こいつは大学生じゃないぞ」と叫ぶのではないか。そういえばリュックもトートバッグも持っていない。「どこに行く気だ」と訊かれても答えられない。だんだんと周りを歩いているのが自分を責め立てる亡霊のように見えてくる。怖ろしくて逃げ場のない一本道を僕は視線を落として目立たぬよう歩き続けた。

コンビニを過ぎたところに丘がある。その頂には天神社という小さな神社があり、引越して間もなく初詣のために一度参拝したことがある。

疲れを感じてきたので少し休むか引き返すかと思案していると、鳥居の脇に桜の樹があるのに気づいた。近くまで行ってじっと眺める。もう散り際で、花びらが五枚から足りないものも多い。

桜を見ると涙が出そうになる。眼の裏側が震えて目尻に暖かいものを感じる。口をキュッと結べば涙も零れようものの、実際触れると乾いている。悲しさを感じるわけでもない。その美しさのせいだろうか。儚さのせいか。根の下に屍体が埋まっているせいか。――どれも的を外しているように思った。

福岡にいる頃に知り合ったばかりの妻と舞鶴公園へ花見に出掛けたことがある。そのとき僕は桜を見て「桜なんて毎年見られる。でもあと何回見られるのかはわからないんだよね」というようなことを言ったことを覚えている。僕は将来の自分が想像できなかった。寿命まで生きるとしても残されたのはせいぜい五十回程度だろう。途中で死ぬことも考えられる。ひょっとしたら僕に残された機会はあと五回ほどかもしれない。これで最後かもしれない。だから僕はこうして桜を見ておくのだ、と言った。彼女がそのときどんな表情だったかは覚えてない。

今僕が見ているのは、それから十回目の桜ということになる。そのままじっと見ていると桜のほうでもこちらを見ているような気がしてくる。ふいに友人の「長生きすべきだよ」という言葉が浮かんだ。そして自分自身でもそれを真似て「長生きすべきだよ」と口にしてみた。するとなんだか急におかしくなってきて、桜からさっと目を離してから周りをちらりと見渡し、僕は鳥居の先に伸びる長い石段を見上げた。



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命を削って

「にとり君、ラーメンは食べられるの」

と同僚が訊く。彼は僕が何でもは食べることはできないことを知っている。

調子が良ければね、と僕は答えた。調子が良ければ食べられるの。まあ、調子が良くて、翌日休んでいいならね。それを聞いてみんなは笑った。そんな命を賭けてまで食べなくてもと笑った。僕も笑った。アレルギーとは違って、何かを口にした途端呼吸困難になるといったものでもないのは幸いである。とは言え、梅干しの種のようなものを誤って飲み込んだだけで腸管が破れる危険があるのも事実ではある。そうしていつも身体にお伺いを立てながら食事をするといった調子である。思い返せばこの病気になったのはもう十年も前のことだった。

先日「風立ちぬ」という映画を観た。ジブリなのにファンタジー性がなく、テーマも明確に観客に押し出された映画だった。戦争期の話だが、どうにかして生きのびるといったよくある話ではなく、いかに生きるかを描いている点が他とは違うものだった。その一方で主人公の二郎の葛藤などの心情描写は少ないため、エンジニアをいかに知っているかで見方も変わってくるかもしれない。

二郎が妹の加代に「僕たちは一日一日をとても大切に生きているんだよ」と話す場面があった。あまり評判の良くない声優ではあるけれど、淡々としたその調子はいくらか諦めがありつつも悲劇で終わらない力強さ、純朴さがあって好感が持てた。

自分は一日一日を大切に生きているだろうか。どちらかと言えば大切に生きていると思っている。自分が十年後にも生きていることにも懐疑的なのだから、自然と一日に自覚的にもなる。けれど、振り返ってみるとそう思い始めてからもう十年も生きてきたのだな、と思えば感慨深い。少しは希望もあるのかもしれない。

外では蝉が鳴いている。蝉のやかましさにはときに閉口するけれど、その懸命さは見習うべきところもあろう。生きるという選択の重さを感じつつ、今日もまた生きるしかあるまい。

うごメモはてなの内側から

最後のうごメモ専任エンジニアとして「うごメモへのメッセージ」を書きます。僕は二年前にはてなに入社してからうごメモに最後まで関わりました。二十三歳が二十五歳になった。

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自分のうごメモとの関わり方

うごメモは歴史のあるサービスなので、関わった人が列挙できないくらい多いです。社内で立ち上げ当初のことを皆懐かしげに語っていました。自分には無い記憶は、楽しそうで、サービスは爆発的に流行って、スピード感のある開発は聞いていて羨ましいものでした。

僕が入社したときは、もうニンテンドー3DSが出ていて、だんだんユーザさんが辞めていくことも多くて、社内ではチームの人もどんどん減って、チームがうまく回らなくなってきた時期もあった。楽しい思い出話を聞けば聞くほど、僕はうごメモにとって辛い時期に入ったんだなぁと思います。

ただ、僕にとっては最後までうごメモは「思い出」ではなかったというのは誇ってもいいかもしれない。辛くて辞めたくなったことも何度もあったけど、ユーザさんに申し訳ないという想いで何とか繋いできた。そして、最後の最後までやり抜いて、ユーザさんと同時刻に終了ページを見て、自分たちで作ったそのページに悲しくなって。そして、「あ、今ユーザさんと同じ場所にいる」。そう思えたとき、本当にここまでやってきてよかったと思いました。

サービスを歴史に残す

少し技術屋っぽい話もします。僕はWebに関わる人間として、Webの歴史を後世に残すということに常に義務感を持っています。二十年後や三十年後に二〇一〇年代のインターネットの様子を調べたときに、出来る限りのWeb資産を残さないといけない。インターネットが生活の多くを占めるようになった現代において、これは本当に大事なことです。

特にうごメモは小中学生の多い特殊な文化のあるコミュニティです。サービスが終了するにしても、こんな世界があった、ということを残したい。最後の三ヶ月ほどはずっとそんな想いで開発を続けて来ました。

ここ数ヶ月にリリースした内容を振り返ると、YouTubeへのアップロード、フォトライフへのアップロード、うごレターのダウンロード、あと問題はあったけどうごメモのAPIとか。

終了までの最後の仕事は、終了後のマイページと作品詳細ページでした。うごメモはてなのすべてのリンクを生かした状態にはできないけど、せめてマイページと作品ページだけは残せたらいいなと思った。

終了するその日になって僕が作りたいと言い出して、間に合うのかわかんなかったけど勢いで作っちゃって、ディレクターのtakapieroさんもそんな勝手を許してくれた。結果的にユーザさんに提供できて本当に良かった。

うごメモユーザさん

最後に、誰が見るでもないだろうけど、今まで使っていただいたうごメモユーザさんたちへの感謝の気持ちを書きたい。

もう一年くらい前かもしれないけど、デザイナのid:chira_rhythm55さんが、「うごメモは子供が最初に触るインターネットだから、良いインターネット体験をさせてあげたい」というようなことを言っていたのを覚えています。

うごメモは他のはてなサービスと比べて異質で、小中学生に圧倒的に支持されたサービスです。中にはパソコンを持っていないという人も多い。うごメモはニンテンドーDSiさえあれば使えるインターネット世界。自分のアニメーションを公開して、コメントを付け合って、スターで評価し合う。

僕が配属されたときは、自分と年の離れたユーザさんが、何をすれば喜ぶのかなんてわからなかったし、言われたことをただやるばかりだった。だけどchira_rhythm55さんの言葉を聞いてはっとさせられました。スターがついたりファンが増えたら嬉しいというのは子供も大人も一緒です。

ゆゆさんの作品

ひいかさん作品

うごメモチームのメンバとして辛いことも多かったことは書きましたが、それでも続けられたのはやはりユーザさんの声があったからだと思います。

良いものを作れば、素直にユーザさんは、はてなさんありがとう、と言ってくれる。それを聞けば、作った甲斐もあるし、もっと良い仕事をしようっていう気になる。

もちろん障害を起こしたり、エラー出しちゃったりすることもあって、お叱りを受けることもあった。だけど、他のサービスのユーザさんよりも素直にフィードバックしてくれたのは、間違いなく僕達のやる気に繋がっていました。

うごメモはてな日記には今もありがとうの言葉が寄せられているけど、僕の方こそ今まで使い続けてくれてありがとう、という気持ちです。あなたたちのおかげで僕なりに良い仕事ができたと自負しています。

終了ページのURLを /thankyou にしよう、と提案したのはid:takapieroさんでしたが、最後の僕らの仕事にユーザさんへの想いを感じていただければ幸いです。

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終了時のうごメモチームの様子。右takapiero、中chira_rhythm55、左が僕。

今まで本当にありがとうございました。これからもそのクリエイティビティを生かして様々な場で活躍してください。皆さんの一〇年後を楽しみにしています。



I'll be there 〜song for うごメモはてな・うごメモシアター ...

礼節を知った話

母は、どちらかと言えば合理的なことを好む性格で、意識的に母から教わったことはどちらかというと合理的なことだった。

そんな母の影響を受けた僕はやはり、合理的なものを好む傾向にある。行動は出来る限り合理的なものになるようにした。不合理なものは嫌いだった。そして僕はそれに疑いを持つこともなかった。合理的であっていけないことなどあるだろうか。

けれど、最近は一見非合理的なものでも共感しうる部分があるということを自覚し始めている。

先日、ある同僚とその奥さん、そして彼らの産まれて間も無い娘さんを囲み、会社の同僚数名で食事をした。失礼ながらそのときの話を少しだけ引用させていただく。記憶を元にしているため正確では無いと思われるが、ご容赦願いたい。

奥さんが出産の日を振り返っての話。いよいよ陣痛が始まったとき、奥さんはさぞ今までに無い痛みに苦しんでいたと思われるが、そこで夫に対して一つ怒ったことがあると言うのだ。それは単純に、夫である同僚が自分の前でパンを食べていたということだった。自分が食べ物どころでなく激しい痛みと戦っているとき、なんでパンなんか食べていられるのか。今食べなくていいじゃないか、と。

対して同僚は、分娩室に入れば何も食べることができなくなるのを見越し、今のうちに、と食べていたと弁明した。ふむ、なるほど。が、その場の空気は奥さんに同情的だった。

僕も奥さんに少なからず同情するところがあった。しかし、言葉には出さずとも、僕は同僚の行動を責めることもできないとも同時に思ったのだ。なぜなら、同僚の行動が合理的だったから。それを責めることは理性に反することだった。

とはいえ、奥さんに同情的でありつつ、同時に同僚に対してもやはり同情的であるという、二つの相反する行動原理を自分の中で許容し得るというのは奇妙である。

静かに思い起こしたのは、武士道のこんなエピソードだった。

 日陰のない炎天下にあなたがいる。顔見知りの日本人が通りかかる。あなたは彼に声を掛ける。すると彼は即座に帽子をとる。
 ここまではまったく自然である。しかし「非常におかしい」ことというのは、彼はあなたと話している間中、日傘をおろしてあなたと同じように炎天下に立っていることである。
 なんと馬鹿げたことだろう。――まさしくそのとおりである。しかし彼の動機は「あなたは炎天下に立っていらっしゃる。私はあなたに同情します。もし私の日傘が二人とも入れるくらい大きいか、または、あなたと私の関係がもっと親しかったら、喜んでこの傘の下にお入れするのですが。けれども今のあなたと私の関係では、日陰をつくって差しあげられないので、私はあなたのご不快をわかちあいます」というのである。そうでなければこの場面は本当におかしいことであろう。

出産とは比較できないほど切迫さが不足した場面であり、重ね重ね無礼だとは思うが、僕はこの二つのエピソードに共通点を見出さずにはいられない。

日傘を持ちつつも敢えて差さなかったり、この先のことを見据えて予めパンをかじることを否定するのは、どちらもやはり非合理的なことである。自分が日傘を差さないからといって相手の暑さが和らぐわけでもないし、痛みが和らぐわけでもない。

しかし、改めて考え直したとき、今の僕にはこれを自信を持って否定することはできないし、理性を持ってそれを排するべきだとも到底思えないのだ。たとえ合理的でないにしても、その考えはどこか一本筋の通ったところがある。



飲み会の途中で同僚が自席を離れ、挨拶のため僕の右隣に座っていたのだけれど、会も終わりに近づいた頃に彼が立ち上がったとき、その同僚が座蒲団なしで床板の上に今まで腰を下ろしていたことに気づいた。そして僕はそれを見て、反射的に申し訳なさを感じた。僕はもっとそれに早く気づいて座蒲団を譲るか、でなければ自分も同じ床板に座って話すべきだと思ったのだ。

今日になって妻に、彼に対してこういう申し訳ないことをした、といった話をすると、妻はただおかしそうに笑っていた。

が、僕はそのとき気づいたのだ。これは合理性の話ではないんだ。損得の問題でもない。これは、礼節だ。そこに相手を思いやる心があり、道理が通るのなら、それを否定する理由などありはしないんだ。

皆で痛みを分かち合うというのは、現代では古い考え方だと言われがちではある。特に会社経営などにそれを持ち込む話がウェブでは嘲笑されているように思う。ただ、それは経営の仕方として間違っているというだけであって、礼節として否定する理由は実のところないのではないか。

自分の中に相反する行動原理を許容しうることになったのは、こういったところが原因であろう。

場の空気が奥さんに同情的であったことから考えれば、皆にとってはどうということのない当たり前のことを言っているに違いないのだけど、いつも非礼を妻にたしなめられてばかりの僕である。誰に強要されるでもなくそういった考えに自然と思い至っている自分に気付き、一人はっとさせられたのだった。

 私たちの立居振舞いの一つひとつに日本人の礼儀作法の感覚が表れているからといって、その中の些細な事柄をとりあげてそれを典型として一般化し、原理そのものを判断するのは誤った推論の方法である。

何かと非礼の多い生涯を送ってきたけれど、同僚のおかげで一人得た発見は、今後も大事にしたいと思った。