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nitro_idiot’s diary

すべてフィクションということになっています。

苦悩の告白

「なかんずく君は発見することになるだろう。人間のなす様々な行為を目にして混乱し、怯え、あるいは吐き気さえもよおしたのは、君一人ではないんだということをね」
―― J.D.サリンジャーライ麦畑でつかまえて

ときどき思い出す言葉がある。それはときに映画だったり、小説だったり、ラジオで聞いた一節だったり、誰かが酒の席で語ったことだったりする。しかもそれらは一度でなく、幾度となく思い出させる。

最近、梶井基次郎の文章を読み直した。もうそれが何度目か分からない。そのあとはJ.D.サリンジャー。そして、これは初めて読む本だが、サン=テグジュペリの「人間の土地」を読んだ。

どれも素晴らしい文章だ。美しい文章というのは他にも数あるが、これらはそれだけに留まらない。

なぜ好きなのだろう。なぜ読み返すのだろう。考え出すと、そこにはずっと根深い理由があることに気づいた。自分すら忘れていた根源が。

なぜサリンジャー梶井基次郎に共感し、サン=テグジュペリにこんなにも勇気づけられるのか。なぜ太宰治に共感し、表現力に感嘆しつつも、彼がこんなに嫌いなのか。人間の苦悩と、ときには希望といった一種くすぐったく、誰もが思春期に通ったであろうありきたりな題材の作品を好んで読み返すのか。自分は成長を拒みたいだけなのか――。

ある日、いざ出かけようという時になってもなかなかPCから目を離さない妻に対して僕はしびれを切らして言った。「そんなもの、僕より重要では、ないだろう」それを聞くと、妻は見上げてしげしげと僕を見つめ、感心したように言った。「僕も、そういうことが言えるようになったんだね!」

はっとした。僕は成長していないわけではないのだ。

悲壮を好むのは僕にとって、単に思春期の一時の絶望に対する憧れではなく、自分の過去そのものだ。砂浜を歩いていて、ふっと振り返る、それに少し似たものなのだ。

僕はここに一つの告白をしようとする。両親も、妻も、友人も、僕以外誰も知らない。これ以降の文章は、誰も幸せにしない。共感もし難いものに違いない。ただそれでも僕が自分について書くことを許された場所を探したとき、ブログという場所が最も適切だと思えた。そして、なにより僕はこれを告白する義務がある。少なくとも妻には――。

話は、僕の中学時代に遡る。

僕は中学受験をして、ある中高一貫校に通うことになった。全寮制で男子校の学校だ。寮に入るというのは十三歳の少年にとって決断しがたいことに思えるが、実際のところ僕自身が親元を離れた寮生活を望んだのだった。

寮での生活をさらりと思い返せば、まるで白い壁を見るような平坦で静的な思い出しかないが、当時の自分の状態を鑑みれば起伏に富み悲惨だったと言わざるをえない。僕に訪れたそれは、十三歳の少年が寮での集団生活で得るしかるべき試練を遥かに逸脱したものだったと思う。ただし、繰り返しになるが、僕は望んで寮に入ったのだ。同じ日に母親に連れられて今後住むべき寮の居室を訪れた友人たちはそのとき同じ境遇にあり、同じ障害を前にしていたに違いない。そして僕も皆同様、そのときは今後の生活にわくわくし、無知で、公平に無力だった。

誰もが、この先来るであろう試練など乗り越えてやろうと思って寮に集っていた。僕ももちろんそうだった。少しの苦労など跳ね除けてやろうと思っていたのだ。しかしその後僕は予想外の方向から苦しみに襲われることになる。

中学三年の頃、僕は二年間と少しの寮生活に慣れては来ていたが、いつも疲労感が消えなかった。自由時間はわずかで、それ以外は皆と共に常に走り続けなければならなかった。でなければその人間は、次の試験で後悔するに違いなく、それは即ちこの学校では価値がない人間と同意なのだ。

僕は耐えて走り続けた。が、疲労感は積もる。毎朝起きるたびに目の下の隈は存在感を増すようだった。

生活の中でもいくつかの兆候はあった。足はふらついたから、廊下を歩くときは必ず壁に手をかけた。食堂のガラス戸を押す力がなかったから、誰かが通る隙間でするりと通り抜けるようにした。

なぜあれだけの苦痛を耐えて毎朝目覚めることができたのだろう? 今になって思い返せば自分でも感嘆する。想像するにそれはおそらく弱い身体の中にある強い自尊心がそうさせたのだ。その自尊心は一つの信念を持っていた。僕がつらいなら、誰だってつらいはずだ、負けるものか。

つらいと思ったときは、誰もが同じだと考えた。寮生活の非日常的なところは、誰もが本当に同じ生活をしているということである。同じ時間に起き、点呼に参加して、同じ場所でご飯を食べ、同じ時間に風呂に入り、同じ時間に学習をし、同じ時間に床につく。その生活で自分と他者に違いが出るとすれば、それは己一身だった。何かがおかしいとすれば、他ならぬ自分自身が悪いのだ。耐えられないとすれば、自分が弱いのだ。なぜ歩くときにこうも足がふらつくのか。自分が軟弱なのだ。なぜ朝を知らせる放送はこんなに僕を憂鬱にさせ、起き上がろうとする気持ちを遮るのか。自分の精神が未熟なのだ。僕は一週間に一度熱を出して、学習時間や学校の授業を休んだ。寝ている居室に帰ってきたルームメイトは、次第に休んで寝ている僕に慣れて、どうせ仮病だろうということを言わずとも態度となって示してきた。しかし、体はこうも毎日重いのだ。それはやはり、僕自身のせいなのだ――。

僕は毎日耐えていた。耐えているということも気づかずに耐え続けていた。自分の中で自分の人生を変える病がくすぶり始めていたのに気づかなかった。

――入院は大げさだと思った。数日の自宅療養と通院を経て、何度目かの通院のときに僕は、必要性も理解せぬうちに入院させられた。着替えなんて持ってきていなかったから、普通の服でとりあえずベッドに座る。入院させられたときに先生に何か理由を言われたはずだけど、それについては何も思い出せない。

入院の準備も何もせず外来通院のつもりで来たものだから、母は急いで家に着替えを取りに戻った。知らない人しかいない静かな病室だった。周りは皆シワだらけのおじいさんだった。彼らの中には自分で歩くことすらできない人間も多くいた。その中での十四歳の少年だ。その場違いさを感じて、かつてなく自分は元気なのだということを実感し始めていた。

僕は元気なのだ。だって、自分の足で歩けるのだから。なのに、食堂に自分から行かずとも食事はベッドに運ばれてくる。恐ろしい寮監の代わりに優しく控えめな看護婦がいた。しかも彼らは僕を病人のように扱うんだから。

その病院は成人病センターという名前だった。学校のある佐賀からは山を隔てて三時間の福岡の病院だった。寮と学校だけが世界だった中学生には、外国のように遠い場所だった。それを思うと、急にあの苦痛だった寮と学校生活が懐かしく思い出されるのだ。早く戻って、皆と同じような生活を送りたかった。僕は、急に自分を取り巻いた人を駄目にすらし兼ねない安息に困惑した。

数日をかけていくつかの検査を終えた。その中の多くは苦痛を伴った。次第に僕はかつての元気もなくなり、いよいよ本当に病人のようになってしまった。

つらく、無意味だと思っていた検査の結果を告げに来た先生は、少し重苦しく同情を込めた声で僕と母に真相を告げた。僕はその意味を数日間かけて理解することになる。今の僕の苦しみは病によるものだということ、その病はこれから一生治ることはないということ、定期的に病院に通って必要なら入院すること、毎晩自宅で経管栄養を続けること。

寮で画一的な生活を送っていた僕にとって、どれも枠から外れることだった。経験の浅い中学生の少年にとって、それは不安であり未知のことだった。だって、どれだけの中学生が、皆が英単語の暗記をしている頃に、自力で鼻から胃に直径1.5mmのチューブを通す練習をしているというのか。

そしてまた、つらかった寮生活を思い返した。誰もが同じつらさを共有していると思っていたのは実のところ幻想だった。僕だけが知らぬ間に腹に重しを括りつけられていたのだ。その事実を理解したとき、僕は決壊した。込み上げる涙に自分でも驚いた。涙は恥も知らずにぼたぼたと流れ落ちた。今まで何年の涙を幻想のもとに押し殺してきたのか。

泣くというのは、自分の弱みを晒すということだ。負けた、つらい、帰りたい、そんな弱い気持ちを見せるのと同じだ。それは、寮生活をする男子達の排他的なコミュニティにおいては、軽蔑の対象だった。それにも関わらず、なぜこうも止められないのか。

数日の検査入院だと思っていた入院生活は、結局六週間続いた。

それからの話も長い。僕のその後の数年は、何もかもうまくいかなかったと言っていい。

退院後に学校に行くと、僕は哀れみの言葉すらもらえなかった。何しろ、僕が不在の真実を誰も知らなかったのだから。

僕が不在のうちにどんなことが学校で行われたかを知らなかったのと同様に、皆のほうも僕がなぜいないのか知らなかったのだ。ただ、席に僕が二ヶ月にも渡っていない。寮にも。そんな中突然現れた僕に皆が向けたのは、驚きの目と――なんと嘲笑だった。

伝え聞いた話だが、ある教師(彼ももちろん真相を知らなかった)が病欠でずっと登校しない僕を見せしめの道具として――控えめに言うと〝非道い〟──物言いをしたのだ。僕が苦しみと苦悩の旅で不在の間に僕は嘲笑の対象になっていた。

それを聞いたとき僕は唖然とした。確かにその教師は感情的に生徒に暴力や暴言を浴びせたりする人間であり、以前からまったく尊敬できない教師だったのだが、腐っても教師が、不在の生徒を単なる想像のうちに否定することができるだろうか? そうは思えど、彼にはできたのだ。教室を一望したときに見える僕の不在は、彼にとって一点の汚点としか思えなかったのかもしれない。

教師への失望に加えて、一方で友人の間では、僕は白血病だということになっていた。だから学校に来ないのだと。

白血病と言えば死にも至る大病のはずだ。しかし、なぜかそれすらも嘲笑の種だった。おそらく、僕が学校を休むために白血病だとか何とか言い訳をしていると思ったのかもしれない。だって、よく見知った友人が白血病になんてなるわけがない、万が一そうだとしたらみんなにそうと知らされているだろうし、もっと深刻な事態になっているだろう、と。

そんな教師と友人に囲まれた中で、僕はただ沈黙した。せざるを得なかった。だって、どうしてこんな非道な人種に、僕が苦しんだものを、葛藤を、いかに僕がこの場に帰ってきたかったかを分からせることができるのか。相手には理解する準備がないだけでなく、彼らは既に偽の空想を喜んで受け入れているのだから。

とはいえ、彼らを責めるのは不当だとも思う。彼らを責めようという気は今に至っても無い。なぜなら、それを理解するのがいかに困難であるかは、その後数年のうちに両親が実証したからだ。

ベッドから自分の意思で起き上がる力がない人間がこの世に存在するということが理解できない人間は多い。そう主張する人間がいれば、おそらく怠惰によるものだろうと皆思う。それは両親も同じことだった。両親は僕の病気についてはもちろん知っている。しかし、そこに少しでも怠惰の可能性があるとすれば、肉親であろうと息子を疑わずにはいられないのだ。

彼らは僕にまだあるであろう自尊心を傷つけることによって、僕に再び「真っ当な」生活を歩むように仕向けた。現在の僕がいかに価値がない人間なのかということを丁寧に教えてくれた。僕はそれに対して、自由に動かないこの身体を恨むことしかできなかった。

そのとき、僕は世界がいかに冷淡で、それと関わることがいかに不毛なのかを全身で吸収したのだ。

誰も自分を理解してくれなどしない、というのは思春期の一時に思い悩むことの代表とは言えるが、僕の場合は唐突なハンデキャップに付随した、思春期の枠を越えて自分と共にある真理とまで言えるものだった。

そうした日々を経て、次第に僕は砂の斜面をじりじりと流れ落ちるように、絶望の淵へと押し流されていった。僕は何もできなかった。僕はもう痛みを感じなかった。ただあったのは空虚な孤独感だった。

そんな中で僕がどうして、誰かが為す行動の中に善意があることを信じられただろう。見る人間誰もが心の底で僕を嗤うのだ。その行為の中に哀れみすらあれど、善意があることを確信できない。ましてや愛なんて、お伽話だった。

こうして、自分からは何も話さず、話しかけられても無愛想で、怠惰な少年の出来上がりだ。最初は話しかけていた人たちも、僕の様子を見て次第に諦める。同じことだ。いずれにしても僕を理解しようとする努力は無駄になる。

ここに出てくる僕と、今の僕が少しでも違うように感じられたのなら、それはその後出会うある女性のおかげということになる。その後彼女は僕の恋人となり、去年晴れて僕の妻となった。

妻は僕の硬化し荒れ果てた心を豊穣なものにした。なんと偉大なのか。一人の人間をまったく変えるまで熱心に導いたのだ。六年もの歳月をかけて。しかし、彼女はその偉大さに恩を着せるのでもなく、ただ謙虚に微笑むだけなのだ。

僕はこの苦悩を彼女にすら伝えていなかった。今思えば不幸なものだ。なぜ僕の態度は自分に対していつも冷淡なのかということを知らされずに、ただ叩きつけられる僕の答えは無情なものだっただろうに。けれども、僕はこれを、少なくとも彼女だけは理解してくれると思って書いている。他の誰もが僕を嘲笑し、軽蔑し、ありふれた苦悩だと吐き捨てたとしても、彼女だけはそれを理解し、今までの行動を赦してくれると信じている。