nitro_idiot’s diary

すべてフィクションということになっています。

愚直

会社の飲み会の席で「今のチームはどうですか」と聞いた彼女とはつい数週間前まで同じチームで仕事をした仲だった。「今のチームは……」思うことをかき集めつつ、まずは、と口に出したのは上司のことだった。「彼は、すごいと思います。……本当に」するとみんな笑った。きっと何を口にしても笑う予定だったのだ。つられて僕も苦しそうに笑った。

何がすごいの。「えっと……」うまく説明しようと思ったのだがうまく話せない。そんなうちにタイミング悪くも遅れて本人が来てしまった。

「今ちょうど話をしていたところですよ」と彼女はあっさり言った。「にとり君がすごいって言ってましたよ。何がすごいのかは言わなかったけど」たとえ本人がいない場であっても悪口は言えないものだな、と思った。

とはいえ、元来上手い嘘などつけない性格なので、すごいと言ったのも嘘ではなかった。すごいと思っていないのであればきっと同じ口調で、彼は大したことないと言っていたはずだ。そしてみんな同じ調子で笑っただろう。

彼は空いていた通路側の席に座った。ビールでいいですか。はい。どうぞ。ありがとうございます。では、お疲れ様でした――。続いてビールの混ざった言葉が交わされ、そのまま僕は同じ席で、あまり興味のない話をそれほど興味もなさそうに聞いた。

ホタル

夜の空気に触れながら河原を歩いていると、視界の上端で淡い光が走った。月の出ない夜であった。見上げてそのまま立ち尽くしていると、再び光の線が走った。

ホタルである。よくよく水辺を見渡すと、他にも数個の点滅を見つけた。

ホタルを見るのはとても久しぶりのことのように思う。最後に見たのはおそらく十年以上前だ。その頃僕は福岡にいた。佐賀まで通じる山道を父に連れられてしばらく登った小川に彼らはいた。一面の暗闇に黄緑の明かりが縦横無尽に飛び回る幻想的な光景を今でも覚えている。手を伸ばせばホタルが触れる。幼い僕はホタルを捕まえて点滅を眺めては、飛ばして、捕まえる。まったく無邪気な思い出である。

僕達はじっと川縁のホタルを対岸で眺めていた。こちらが点いては、あちらが消えるといった様子で点滅する暗闇であった。それは申し訳程度につけられたイルミネーションのようだった。

「何匹いるだろう」そうつぶやいてちらりと彼女を見やったが、それには何も答えずに彼女はじっと暗闇で目をこらしているようだった。しばらくして「八匹いる?」と自信なさげな答えが帰ってきた。八匹か。

人通りもなく、周りはとても静かだった。風も吹かない。いや、水がぶつかり合う音だけは絶えずしていた。しかしそれは、目で見ている点滅とはまったく相関しないものであったため、目と耳の世界が乖離しているかのように思われた。それは無声映画を見るのに似ていた。点滅は、まったく静かであった。

暗闇をじっと見ていると、見えないものをどうにか見ようとする。姿の見えない光点に意識がゆく。こちらの点は、他と比べて少し離れているな。一人が好きなのだろうか。あの二点は活発に動いているようだな。近づいては離れて、点いては消えて、まるで妖艶なダンスを踊っているようではないか。ある一点は、川縁を離れて小川の中程まで近づいてきて、月の出ない夜に自分を川面に映していた。ただ共通しているのは、どれも静かで、どれも淡いことだった。

寡黙な彼らの姿を見ていると、自然と彼らの死について考えていた。ホタルが死ぬ様はどのようであるか。この点滅がだんだんと穏やかになり、小さくなって、ゆっくりと。そうして終いには消えたきり二度と点かない。そういった具合だろうか。消えたときは、電球のフィラメントが焼き切れるように、ジリッという音が出るのだろうか。それと共に鉄の焼けた匂いがほのかにしたりするだろうか。

なんにしても、そこにはなにかしら感動や苦痛があるはずである。

明かりが消えたあとはどうか。自身は川縁を離れてこの水面を流れるだろうか。すぐ眼下の暗い岩陰には、そういった死骸が多く流れ溜まっていたりするだろうか──。

淡い光は依然光り続けた。僕達は息を飲んで、姿の見えぬ点滅たちを見守った。咳を一つ立てればあっという間に散り散りになってしまいそうな世界だった。呼吸を止めて、再び自分を思いやったときには、僕の心を圧えつけていた不吉な塊は解け、周りを照らすように発散してどこまでも透き通っていくのを感じた。

被災地を訪れて

去年三月十一日の東北地方太平洋沖地震があったとき、僕は六本木のオフィスで仕事をしていた。東京も震度五強で、建物が倒壊するほどではなかったけれど、その日は電車が一晩中動かず、会社の椅子で眠った。

先日、その日に会社のテレビで見た大津波の町、宮城県南三陸町に、数日間滞在した。会社の開発合宿を兼ねたもので、二日間はカンヅメで開発を行い、残り二日で被災地の様子を見てまわる旅行だった。

早朝からバスと飛行機と、さらにバスに乗って辿り着いた町は何もない場所だった。海沿いを走って開けた平地に出る。眠い目をこすって眺めた雪原に、かつて家が並んでいたのだということに気づくまで時間がかかった。ただ四角いコンクリートの枠だけが残り、薄い雪がそれを覆う。家も商店も一様に消え去り、バスがいくら進んでも廃墟と雪原しかない。このような光景が海岸から遙か遠くまで続いているというのだから驚く。

どれほどの津波であればこんな惨状になるのか。聞くと、三階建ての建物の屋上に登って膝下くらいまで水が来て、一晩水が引かなかったそうだ。ビルの上に取り残された車や、陸上の船がその確からしさを増している。高台に登って見渡した景色がすべて海で覆われていると聞いたときの背筋の凍る想いは忘れられない。

このような機会がなければ絶対に訪れなかったであろう僕が言うのはとても恐れ多いけれど、実際に行くことでより身近に感じられたのは良い体験だった。現地の被災された方々も快く歓迎してくれた。「実際に来ていただけるのが最大のボランティア」という言葉を聞いてとても心が痛んだ。僕は去年の地震を、いつまで身近に感じていられただろう。三月だったか四月だったか。でも、現地の人々は七月まで水も出ないような生活を強いられていた。

一年経った今、ようやく瓦礫の撤去までできたものの、何も取り始められないこの現状を見るに、物見遊山でもいいから、来て、見てもらいたい、という言葉は、今後も十年以上続くだろう。同じ時間で止まった瓦礫の中の時計を、せめて訪れた我々だけは忘れてはいけない。