nitro_idiot’s diary

すべてフィクションということになっています。

欺瞞

毎朝、種を蒔いた盆栽に水を遣る。水遣りは上からジョウロでぱらりと撒くような優雅なものではなく、種が流れてしまわないよう水を張った皿に鉢ごと浸けて行う。水分が行き渡るまでには二十秒ほどかかる。僕は軒下でじっと土の表面を見つめていた。蒔いてひと月ほど経つが、相変わらず、芽は出ない。

飲みに行った翌日の朝の感覚は不思議だ。頭には後頭部を殴打して痛みが引いた後に残る痺れのようなものがある。体には疲労感を伴わない微かな気怠さ。そして眩い光を薄目で見上げ、痴呆のような無邪気さで昨日のことを夢のように思い出すのだ。

酒の席での会話は明らかに普段と異なるところがある。皆席に着く途端に旧年来の友人と再会したかのように振る舞う。お互いについて既に熟知していて、何もかもを認め合っているように見えることもある。誰もが話すことは全て本心であると言った口調である。そういった間柄は心地の良いものであろう。単に近況を話すにしてもそこには大きな違いがある。しかし、実際は数年一緒に仕事をしてきた程度の間柄でしかない。お互いの一面を知ったか知らぬかというところが精々である。僕は隣の相手が家でどのように妻に接するか知らない。酒をつぐ相手が今までどのような苦痛を忍んできたか知らない。どのようなものに興味があって、仕事では見る機会のない技術を日々磨いているか、知らない。

それが知りたいというわけではない。ただ、それを共有し合うでもなく繰り返しこういった場が設けられるのは、未成熟な人間関係でも一時は分かり合えるという楽観的な錯覚を得たいからなのかもしれない。金で買った女と夫婦の真似事をするような空々しさがある。けれど、それも人間関係の複雑さに対する諦念や反抗心から生ずる不誠実だと思えば、必ずしも不愉快ではない。

いつかの酒の席で、違う部署の女性に、好きな作家は誰かと聞かれたことがあった。唐突な質問で答えを用意してなかったから内心焦ってしまって、あまり考えずにふと思い起こした作家の名を言った。梶井基次郎が好きです。そう言ってしまって失敗したと思った。嘘だったからではない。ただそれがあまりに本心に近かったからである。

彼女にとってはほんの退屈まぎれの他愛ない話題だったろうが、このとき僕は自分の裡を無防備に晒したように感じた。言った自分は彼女を通じ即座に自分に転写され客体となる。その瞬間、今まで呑気に座っていた岩の裏側の湿った土と蠢く団子虫を見たかのような居心地の悪さを感じた。そこに闇があるということを否定してはならないが、それを晒すのは今であるべきではない。本心を言わないか、たとえ言ってもどこかに空々しさを残して、嘘かもしれないと思わせる卑しさがこの場には必要なのだ――。

そろそろ二十秒経っただろうと、水が行き渡ったことを確認するために土に軽く触れてみた。指の腹で湿り気を感じたとき、同時にその柔らかな土の下を想像した。未だ変わらぬこの土の中で、果たして種は芽を出さんとしているだろうか。

考えれば考えるほど、まだそれは種のまま土に潜んでいるような気がしてならなかった。蒔いたときの小さく硬い種を思えば、そこから柔らかな緑の葉が息吹くまでの間には明らかな飛躍がある。疑念は疑念を呼び、ふっとこの土を引っ掻き回して中を覗いてみたい衝動が湧いた。

ひょっとすると、この土の中の種はもうとっくに消えてしまっていて、いくら水をやっても芽など出ないのではないか。いや若しくは、種はあるのだが、愚直にも毎日水をやっている僕を見て面白くなり、悪戯心でまだ芽を出さないでやろうと思っているのかもしれない。

けれど、そんな考えにももはや不思議と腹は立たなかった。考えても無駄なことだ。それらの浅ましい考えをすべて打ち捨てると僕は、水を含んで少し重くなった鉢が日向に戻ることを許し、しばらく共に春の風に当たっていた。