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nitro_idiot’s diary

すべてフィクションということになっています。

それぞれの社会

最近、大学生の頃に知り合った年下の女の子と再会した。彼女は当時は短大に通っていて自分の頭の悪さを卑下していたけれど、明るく利発でジョークのセンスも良かった。君は頭がいいね、と言うと、え、そんなこと言われたの初めて、と恥ずかしがりながらも少しうれしそうだった。彼女は僕の見る社会から見れば完全な異邦人で、僕と知り合ったのはインターネットの偶然と言う他なかった。

人を好きになったことがないと言っていた彼女は、短大を出て歯科衛生士になったのち結婚して専業主婦になった。そして今は夫と一歳に満たない赤子の三人で暮らしている。結婚相手は職場の歯科医だった。そのとき僕は彼女が昔言っていた、告白されたら何となく付き合ってきたの、という言葉を思い出していた。

旦那にはね、楽をさせてもらっているけれど、結婚式と新婚旅行で貯金を使ってしまって少し心配。子どもの学資保険はとても高いのよ。いずれは引越しをして旦那の両親と同居する予定なの。最初はとても嫌だったけどお義母さんが優しい人で、今ではそれもいいかなって思えてきた。向こうは田舎だから開業してやっていけるかわからないけれどね。彼女のような魅力的な人でもこんなつまらない結婚をするのだなと思った。

彼女はふと僕に「あなたは絶望することってある?」と聞いた。僕は少し考えて、ないかな、と答えた。社会をくそつまらないな、と思うことはあるけれど、それは絶望ではない。

そもそも絶望できるのは希望がある人だけだ。希望がある人というのも今の時代には極めて少ない。近代化が終わってこれ以上の経済成長も望めないこの国には希望は多くない。希望なんて言葉がとても浅薄に聞こえる。

――そう聞く彼女は絶望することがあるだろうか。あるとしたら彼女の希望とはなんだったのだろうか。僕は聞き返すことができなかった。彼女は夫の故郷の田舎に引越し、朝に夫を見送ってから一日中家にいて、母として子供にミルクを与えたりおしめを替えたりしながらテレビの前に座って物を食べたり飲んだりし、大して夫も愛さず、歳をとる。


先日、中学生の女の子とウェブで知り合った。

彼女の見ている社会は狭い。友達のこと、学校のこと、部活のこと、塾のこと、一緒に暮らす兄と母。話すことはあまり多くはない。

「今のクラスが嫌い」とある日彼女は言った。――クラスでね、いじめられてる子がいるの。一年のときにいじめられたトラウマで、ときどき過呼吸になるんだ。先生がその子を保健室に連れて行くんだけど、そのときみんなそれを見て笑ってた。いじめてた子も。どうして笑えるの。サイテーだよね。許せないよ。

そして言葉を切って、「……私はクラスの人たちを、人として認めたくない」と言った。普段明るい彼女には似つかわしくない力強い憎しみの言葉だった。

彼女に何を言うべきか少し考えてから僕は「でも、そういう人は社会にはたくさんいるよ」と言った。「人間ってそもそもそういう醜いものだと思う」


その頃久しぶりに2ちゃんねるを覗く機会があった。サイトは昔見たときと何も変わらず、まるで二〇〇〇年にタイムスリップしたような錯覚を起こす。

2ちゃんねるを見ると、人と人が解り合うのは容易ではないことがわかる。議論をしていても人はすぐに感情的になる。反論ではなく相手を罵倒したがる。そこにいる人間は、ひどく醜い。

それは匿名だからだ、と言う人もいる。確かにその通りだ。けれどそれを書いているのも人間だということは疑いのないことだし、むしろ僕は、それこそが人間なのだ、と思う。

実名や対面だと態度が変わるのはなぜか。それはそこに生まれる人間同士の関係性は永続的なものだし、その後の関係や自分への評価に少なからず影響を与えるからだ。罵倒したりすれば、話のわからない人だ、という評価がつけられて軽んじられる。相手が友人ならば友人一人を失うことになる。友人を失うことと罵倒したい欲求を天秤にかけて、ほどんどの人は罵倒せずに労力をかけることを選ぶ。だから人は対面では安易に他人を罵倒することはしない。やりたくてもできない。

人間というものはそもそも自分勝手なのだ。みんな自分が大事なのだ。他人を理解する努力などできればしたくないのだ。他人との理解よりも優越感をとる生き物なのだ。一方的に自分の意見をまくし立てて、相手を黙らせれば満足なのだ。弱い人間を貶められる機会があれば逃すことはない。そして安易に他人を傷つけ、すぐに忘れる。

中学生のクラスメイトたちが見せた残酷さは人間の本性だと思う。彼らが特別なのではない。人間なんてそもそも醜いものだ。期待してはいけない。


そういうことを言おうと思ってすぐにやめた。クラスの人たちの残酷さが理解できないと言う彼女にとって、僕の言葉は何の慰めにもならない。人間の醜さを説かれるよりも、そんなクラスはサイテーだよね、と同調してもらったほうがずっと彼女にとっては救いになったろう。しかし、そんな言葉は対症療法にしかならないし、長期的に見て有益なことは何もない。

それから僕は少し考えてから「今までで有益だった教訓の一つに、『現実を否定するな』というものがあるよ」と言った。「サイテーな人たちは世の中に溢れてるけれど、彼らはどうあがいても存在し続ける。そんな彼らを否定しても、自分がつらいだけだ」


僕が厭世家なのはサイテーな人間が世の中に蔓延っているからだけど、だからと言って社会を捨てるべきだとは思わない。誰もが鴨長明の「おほかた、世をのがれ、身を捨てしより、恨みもなく、恐れもなし」の境地に至れるわけではない。きっとそんな生活は寂しいに違いない。

社会がつまらないと僕が感じるのは単に僕の社会への関わり方が下手だからだと思う。僕は子持ちの専業主婦ではない。よい関わりを得るためにはリスクを取らなければならないということも知っている。たとえば時間や金銭的なコストがそうだ。それを放って好き勝手やっているのだから隠遁者のような生き方にならざるを得ない。


京都時代の妻繋がりの友人が東京に引っ越してきたので会いましょうと連絡があった。正直、外に出たくない気分だったから「行くのはだるいけど、うちまで来るなら会わないこともない」と言って妻だけで会うことになった。半日ほど経ってから、冷房の効いた家で一人ぼけーっとしていると、妻から電話がかかってきた。「これからうちに連れていきます」

なんと愚妻が僕の言った「家までくるなら会わないこともない」という言葉を相手にそっくりそのまま伝えやがって、「じゃあ行きましょう」ということになったのだそうだ。

テーブルの向かいに座った数年ぶりに会う旧友を見て、変な人だな、と思う。よくもまあ来たものだ。僕は呆れつつも背筋が伸びる思いで、彼がこの数年にあったことをゆっくりと話し始めるのを静かに見ていた。