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nitro_idiot’s diary

すべてフィクションということになっています。

礼節を知った話

母は、どちらかと言えば合理的なことを好む性格で、意識的に母から教わったことはどちらかというと合理的なことだった。

そんな母の影響を受けた僕はやはり、合理的なものを好む傾向にある。行動は出来る限り合理的なものになるようにした。不合理なものは嫌いだった。そして僕はそれに疑いを持つこともなかった。合理的であっていけないことなどあるだろうか。

けれど、最近は一見非合理的なものでも共感しうる部分があるということを自覚し始めている。

先日、ある同僚とその奥さん、そして彼らの産まれて間も無い娘さんを囲み、会社の同僚数名で食事をした。失礼ながらそのときの話を少しだけ引用させていただく。記憶を元にしているため正確では無いと思われるが、ご容赦願いたい。

奥さんが出産の日を振り返っての話。いよいよ陣痛が始まったとき、奥さんはさぞ今までに無い痛みに苦しんでいたと思われるが、そこで夫に対して一つ怒ったことがあると言うのだ。それは単純に、夫である同僚が自分の前でパンを食べていたということだった。自分が食べ物どころでなく激しい痛みと戦っているとき、なんでパンなんか食べていられるのか。今食べなくていいじゃないか、と。

対して同僚は、分娩室に入れば何も食べることができなくなるのを見越し、今のうちに、と食べていたと弁明した。ふむ、なるほど。が、その場の空気は奥さんに同情的だった。

僕も奥さんに少なからず同情するところがあった。しかし、言葉には出さずとも、僕は同僚の行動を責めることもできないとも同時に思ったのだ。なぜなら、同僚の行動が合理的だったから。それを責めることは理性に反することだった。

とはいえ、奥さんに同情的でありつつ、同時に同僚に対してもやはり同情的であるという、二つの相反する行動原理を自分の中で許容し得るというのは奇妙である。

静かに思い起こしたのは、武士道のこんなエピソードだった。

 日陰のない炎天下にあなたがいる。顔見知りの日本人が通りかかる。あなたは彼に声を掛ける。すると彼は即座に帽子をとる。
 ここまではまったく自然である。しかし「非常におかしい」ことというのは、彼はあなたと話している間中、日傘をおろしてあなたと同じように炎天下に立っていることである。
 なんと馬鹿げたことだろう。――まさしくそのとおりである。しかし彼の動機は「あなたは炎天下に立っていらっしゃる。私はあなたに同情します。もし私の日傘が二人とも入れるくらい大きいか、または、あなたと私の関係がもっと親しかったら、喜んでこの傘の下にお入れするのですが。けれども今のあなたと私の関係では、日陰をつくって差しあげられないので、私はあなたのご不快をわかちあいます」というのである。そうでなければこの場面は本当におかしいことであろう。

出産とは比較できないほど切迫さが不足した場面であり、重ね重ね無礼だとは思うが、僕はこの二つのエピソードに共通点を見出さずにはいられない。

日傘を持ちつつも敢えて差さなかったり、この先のことを見据えて予めパンをかじることを否定するのは、どちらもやはり非合理的なことである。自分が日傘を差さないからといって相手の暑さが和らぐわけでもないし、痛みが和らぐわけでもない。

しかし、改めて考え直したとき、今の僕にはこれを自信を持って否定することはできないし、理性を持ってそれを排するべきだとも到底思えないのだ。たとえ合理的でないにしても、その考えはどこか一本筋の通ったところがある。



飲み会の途中で同僚が自席を離れ、挨拶のため僕の右隣に座っていたのだけれど、会も終わりに近づいた頃に彼が立ち上がったとき、その同僚が座蒲団なしで床板の上に今まで腰を下ろしていたことに気づいた。そして僕はそれを見て、反射的に申し訳なさを感じた。僕はもっとそれに早く気づいて座蒲団を譲るか、でなければ自分も同じ床板に座って話すべきだと思ったのだ。

今日になって妻に、彼に対してこういう申し訳ないことをした、といった話をすると、妻はただおかしそうに笑っていた。

が、僕はそのとき気づいたのだ。これは合理性の話ではないんだ。損得の問題でもない。これは、礼節だ。そこに相手を思いやる心があり、道理が通るのなら、それを否定する理由などありはしないんだ。

皆で痛みを分かち合うというのは、現代では古い考え方だと言われがちではある。特に会社経営などにそれを持ち込む話がウェブでは嘲笑されているように思う。ただ、それは経営の仕方として間違っているというだけであって、礼節として否定する理由は実のところないのではないか。

自分の中に相反する行動原理を許容しうることになったのは、こういったところが原因であろう。

場の空気が奥さんに同情的であったことから考えれば、皆にとってはどうということのない当たり前のことを言っているに違いないのだけど、いつも非礼を妻にたしなめられてばかりの僕である。誰に強要されるでもなくそういった考えに自然と思い至っている自分に気付き、一人はっとさせられたのだった。

 私たちの立居振舞いの一つひとつに日本人の礼儀作法の感覚が表れているからといって、その中の些細な事柄をとりあげてそれを典型として一般化し、原理そのものを判断するのは誤った推論の方法である。

何かと非礼の多い生涯を送ってきたけれど、同僚のおかげで一人得た発見は、今後も大事にしたいと思った。