nitro_idiot’s diary

すべてフィクションということになっています。

世界片

去年の四月にマイクロ一眼を買った。携帯のカメラで風景を撮っていた僕にとっては良すぎるカメラだ。それまでほとんど趣味と言えるもののなかった僕にとって初めての趣味だった。

カメラを買うまでは、そんなにたくさん撮ることがあるだろうかと考えあぐねている時期もあったが、実際買ってみると週末に出かけた際などに持ち歩いて、気の向くままに撮って回る事が多い。

以前、関東の友人と外に出たときに新しいカメラの話になった。彼は僕の首にかかったカメラを示してピント? ぼかし? 補正? 確かそんな話をした。僕は、さあ、よく知らない、とだけ首をすくめて答えた。すると彼は呆れた顔をして言う。

「深町さん、もっとカメラのこと勉強したらどうですか」

そう言われてもなぁ……。何しろ僕は使いこなそうという気がないのだ。シャッターがついていて、押したらそれなりの質で撮れるという物体であればそれ以上に立ち入る気がない。うまく撮れないことも多い。気にしない。そういったものを眺めるのも悪くない。逆に偶然にもよく撮れたものはFacebookに貼り付けたりして楽しんでいる。

考えてみると、僕はカメラを向けてシャッターを押すという動作が好きでカメラを持ち歩いているのかもしれない。醜いものや退屈なものばかりのこの世界で、ただ美しいものだけを切り取っては集めている。

本屋に行っての帰り道、すぐに帰っては勿体無いと思い、あてもなく家とは反対の方角へ向かった。週末の買い物客の多い河原町から小道に入り、騒がしい木屋町通を抜けると鴨川がある。河原への階段を下りた。冷たい空気が周りを満たす。

僕は冬がそれほど嫌いじゃない。冬の寒さは街の喧騒をかき消してくれる。街の人の口数は減って一様に衣服は膨れ、皆自分の中に篭る。すると、この僕にもどうにか溶け込む場所があるように思えるのだ。

僕は鴨川を一人北に歩きながら、どうもこうもなってくれそうにない多くのことを持て余していた。はあ。寒い。寒い。どうしよう。もう誰も僕を知らない場所に、行ってしまえればいいのに。

風が吹いた。身を縮めて行き過ぎるのを待ち、凍えてうまく動かせなくなっていた指先を口元に寄せた。吐いた息は白い。そのとき、はっと我に返って僕は辺りを見回した。

自転車の車輪がからからと回る。鴨は静かに川面を漂っていた。遠くに聞こえる車の音はどこからだろう。すれ違う人は皆無言で、衣擦れだけが行くあてもなく漂っている。

すべてが厳かに思える空間だった。まるで言の葉を発してしまうとこの世界が崩壊するかのように思われた。誰もが知らないはずの空間で、今なら誰もが理解し合えるのではないかとすら感じられる。何らゆかりもない土地でそんな考えが生まれたことに驚愕した。

前方からは老婦人が犬と並んで歩いてきていた。進路に僕を認めた婦人は、リードを静かに背中に回した。犬はゆっくりと後ろに回り、再び同じ速度で歩き始めた。

僕はそれを避けて道の端を慎重に歩きながら、少し俯き、誰にともなく願った。どうかこの地が、僕を拒むことなく、もうしばらくここに留まることを、許してくれますように。

僕とニトリと深町英太郎

去年、僕は歳をとるのをやめた。

正確に言うなら誕生日を捨てた。自分の誕生日が嫌いだったからだ。誕生日が来る数カ月前にウェブ上にあるさまざまなサイトから、自分の誕生日の情報を神経質に消して回った。個人ブログ、TwitterGoogleFacebook、GitHub、mixi、そして、はてな。今まで自分がこれほどのサービスで当たり前のように誕生日を入力していたことに驚いた。

そうして時は経ち、いよいよ誕生日を迎えて僕は二十四歳になった。誰にも知られてはいけない自分だけの秘密を抱えることは愉快だった。そのとき、はてなに転職して一カ月が経っていた。

はてなでは、社員同士をお互いはてなIDで呼び合う文化がある。

「『nitro_idiot』って長いね。何て呼べばいい?」
「何でもいいです。『にとろ』とかでしょうか」
「んー……。にとろ……。nitroとidiotで……『にとり』君ってどう?」
「……なんだか家具屋さんみたいな名前ですね」

「深町さん」と呼ばれることに慣れていた僕は、最初「にとり君」と呼ばれることに違和感があった。ただ、それも徐々に慣れてきて、最近では自ら意識して使い分けることすらしている。今までの僕が深町英太郎で、これからの僕がnitro_idiot。

東京の深町英太郎と、京都のnitro_idiot。社会的な深町英太郎と、非社会的なnitro_idiot。理想主義な深町英太郎と、現実主義なnitro_idiot。はてなブログにいるのはnitro_idiotで、ダイアリーに住んでるのは深町英太郎。もうしばらく更新していないけれど。

パラレルワールドの溝に落ちた僕は、新年に皆が掲げる華々しい抱負をよそに、ずっと終わらないように思える世界で、一人だけ、二〇一一年十三月を迎えた。